◎2024(令和6)年9月25日(水)
本日、白川地区北コミュニティセンターにて『亀山紅茶研究会』が開催されました。参加者は7名でした。
この研究会は中央公民館主催の出前文化講座「紅茶専科」から発展して新たに発足されました。
本研究会の代表者は松浦さん、総勢10名の方々が中川榮美子さんご指導のもといろいろな種類の紅茶の入れ方を研究されるそうです。
本日はお茶の葉をもみ、発酵させて紅茶を作りました。
また、「日本紅茶の父」多田元吉と亀山紅茶「べにほまれ」について学びました。
1.多田元吉の生い立ち
多田元吉(ただもときち)は1829年、千葉県に生まれました。武士の家系に育ち、幼少期から剣術や学問に励む中で、勤勉さと努力が彼の人格形成に大きく影響しました。明治維新の時期、日本が激動の時代を迎える中、元吉は新しい時代に必要な産業の発展に強い関心を持つようになりました。
2.武士から官僚へ
元吉は青年期に明治政府の改革に感銘を受け、官僚を目指す決意を固めました。特に農業や茶業の発展に寄与するために、自身の知識を深めることを選びました。彼は30代半ば頃に農商務省に入省し、国産の農作物や茶業の可能性に注目しました。その後、元吉は政府の命を受けてイギリスに渡り、紅茶の製造方法を学び、さらに当時イギリスの植民地であったインドに渡り、元吉は紅茶の栽培技術を学び、命がけで種を持ち帰る決意を固めました。彼は衣類の裏地に種を隠して持ち帰るという大胆な行動に出たのでした。
3.「べにほまれ」の誕生
帰国後、元吉は三重県の亀山で紅茶の栽培を始めました。山の温暖な気候と適切な土壌が、紅茶様の成長に最適であったため、元吉は新たな産業の可能性を感じました。「べにほまれ」と名付けられたこの紅茶は、品質の高さで国内外から注目を集め、日本の茶業振に大きく貢献しました。
4.元吉の死後
1896年、多田元吉は亡くなりましたが、その後「べにほまれ」は安価な海外紅茶の輸入の影響を受け、次第に衰退しました。しかし、1961年(昭和26年)には、ロンドンのブレンダーからダージリン紅茶を超える最高価格評価を受け、再び注目されました。その後、2000年代に入ると、地域の人々の努力によって「べにほまれ」の復興プロジェクトが立ち上がり、再評価されるようになりました。現在では、山紅茶は地域の特産品として多くの人々に親しまれています。
5.茶は人を結ぶ
元吉は、茶業を通じて人々が繋がり、文化や交流が深まることをじていました。彼の理念である「茶は人を結ぶ」という言葉は、茶がただの飲み物以上のものであり、国際的な交流の手段であるという思いを象徴しています。この理念は、今なお茶業に携わる人々の中で生き続けています。